ラヴ♥パレード
act.1

 人は一生に一度“運命の女性”に巡り会うという。

 俺——北見 孝一(きたみ こういち)—には無理な話だけど。

 だって俺、ゲイだから。

「何時から?」とか「どうして?」なんて聞いてくれるなよ。そんなの本人にだって判らない。俺と親父以外は全て女っていう女系家族で育ったからなのか、物心ついた時から心を惹かれるのは同性だけだった。自分の性癖について悩んだ時期もあったし、なんとかしようと女子と遊んでもみたけれど、性的興奮もトキメキもなく、ひどい時は吐き気まで催すほどだった。 女子達の名誉のために言っておくが決して彼女達に魅力がなかったわけじゃない。すべては俺の問題だったのだ。

 この癖と付き合っていく覚悟を決めたのが中三の秋。中高一貫の男子校だったから、女子の誘いがゼロだったわけじゃないが高校を卒業するまではわりと平穏な日々を過ごせた。

でも大学はそう上手くいかなかった。

「女子大があってなんで男子大がないんだ」とは思ったが、ないものは仕方ない。極力女子の少ない理系学部を選んで今年三回生になった。今、俺が愛している女はマウスのメスだけだったりする。理系といえど専攻する女子は当然存在するわけで、同級生には性癖を入学当初に話してある。隠しておくのは簡単だけれど、どこか無理が生じるし無理しながら付き合っていくのも面倒だった。覚悟の上の告白だったのだが、あっけらかんと受け入れられたのでちょっと拍子抜けした感じもした。さすがに理系に進むだけあって女子はサバサバしたタイプが多く、ありがたいことに恋の助言なんかも貰ったりなんかする。

 背が高くてスリム、顔は自分で言うのもなんだけど人並以上な俺は今人気急上昇中の若手俳優に似ているとよく言われる。見た目でいえばカッコイイ系。だから連れて歩くと人目を引く。おまけに危険度ゼロだからカモフラージュ要員にされたりアテ馬にされたりと女子には重宝がられている。知らないヤツから見れば、かなりのナンパ野郎に見えるんだろうけれど思わせたい奴には思わせとけばいい。ノーマルな嗜好の奴等に未だ市民権を得られないゲイの気持ちは解るわけがない。

これまでの決して長くはない人生の中で真剣につき合ったことは未だゼロ。俺が惚れる奴は何故か皆ノンケだし。同好の志には好みは少ない。報われない思いを抱いて慰めあうセフレは何人かいるけれど、いってみれば皆、右手の代わりだ。

でも、やっと見つけた“運命の男性”っていうやつを。

 出会いは去年の学祭、バスケ部の親善試合でのことだった。

 彼はわが校の選手としてコートにいた。

 試合が始まるやいなやの速攻でゴールを決めた時の誇らし気な笑顔に一目ボレ。それからゲーム終了のホイッスルが鳴るまで俺の目は彼しか写していなかった。休憩の間もベンチで談笑する彼を見つめ続けていた。林立するデカイ男達の中にいると埋もれてしまうほど小柄な彼だが、まるでピンスポットが当たっているかのように彼だけが光って見えた。額の汗止めのヘアバンドの柄も小作りな顔にクルクルと良く動く小リスみたいな瞳もハネた毛先で光る汗の粒までもが手に取るように解ったのだ。

 彼の活躍で試合はわが校の勝ち。その後、打ち上げにも紛れ込んだのだが、そこに目指す姿はなかった。聞けば助っ人を頼まれただけだからと辞退したという。俺をはじめとしてタダ酒が飲めると言うだけで紛れ込む奴が多いというのに。今どき珍しい奥ゆかしさというかなんというか彼の心根に益々俺は恋心をつのらせた。

結局、俺が知り得たのは彼が“ユウキ”という名前で同じ大学の文学部の一年だということだけだった。“ユウキ”が名字をさすのか名前を指すのかさえ判らない。事務局に問合せをとも思ったが、血縁者か緊急を要する場合でない限り個人のプライバシーは教えてくれないというので諦めた。

あれから半年余りが経つけれど出会うことは殆どない。

千数百人という学生を抱えるマンモス大学では学部が同じでも学年が違えば接点を持つのは難しい。おまけに彼とは学部も学年も違うのだ。学内で見かけたり学食のテーブルが近かったなんてニアミスはあるけれど、それも片手で足りるくらいの回数だし、ましてや声をかけるなんて無理な話。だって見知らぬ人間からいきなり声をかけられたら、引かれるだけだろうし。飯を食べながら笑ってる顔を遠くから見つめるだけで満足している、悲しいまでの片思いなのだ。

果たして、俺の思いが報われる日は来るのだろうか———。

 

 ガッシャーン!

 静かな店内に響く不協和音は俺の手から滑り落ちた皿だ。この音を聞くのはこれで三回目。つまり業務開始後わずか四時間たらずで俺は三枚の皿をおしゃかにしたことになる。

「……孝一、洗い物はもういいからそれ片付けてフロアの掃除に回れ」

 チーフの鹿島さんが眉間に皺を寄せ難しい顔で言った。度重なる失敗にさすがの鹿島さんも堪忍袋の緒が切れたらしい。

「スミマセン…」

 蚊の泣くような声で謝って流しの下にしゃがみ込み、散らばった欠片を掃き集める。

 バイトを始めて以来、これほど備品を犠牲にしたことはない。そういえば夕べは研究室に泊まり込みで、毎朝恒例の星占いを見損ねている。結果を鵜呑みにするほどメデタくはないつもりだけれど、きっと今日の結果は最悪だったに違いない。

「どうしたんだ。今日ヘンだぞお前。何を聞いても上の空でサ」

 皿の残骸の入ったちり取りを受け取りながらコックの達哉さんが言う。

「そういやそうだな。寝不足なのか?」

 グラスを磨き上げながら鹿島さんが不調の原因を聞いてきた。

「確かに寝てないですけど…そんなことで注意力が散漫になるってことはないですよ」

 一日二日寝ないぐらいで注意力が疎かになっていたら、これから先、研究なんてやっていけない。それくらいの体力はある。

「ならどうしたんだ今日に限って。心ここに在らずって感じはしてたんだけどな」

 さすが厨房の責任者はよく見てる、っていうか働いてるのが俺と達哉さんだけなんだから目に付いて当たり前か。鹿島さんの問いかけに達哉さんも「そうっすね」と頷く。

「入りが遅れたことと何か関係あるのか?」

「当たらずとも遠からずってとこですね」

「学校でなんかトラブったとか?」

「意外と達哉さん鋭いですね。大学でのトラブルなんてしょっちゅうですけどね、でもそんなの来る時のことに比べたら些細なことです」

「だから何があったんだよ、奥歯に物の挟まったような言い方しないでサッサと吐き出しちまえ。これ以上犠牲が増えたら俺がママにどやされる。ここで言いづらいってんなら場所変えてもいいんだぞ?」

 グラスを棚に戻して鹿島さんが酒を飲む仕草をする。

「オッ、いいですね。鹿島さんには及ばないけど俺も相談に乗ってやるよん!」

 俺と一つしか違わないのに酒に目がない達哉さんが調子にのって背中を叩く、と。

「お疲れ〜」

だらけた声が聞こえ、最後の客を見送りに出ていたママと朝美(ともみ)さんが戻ってきた。

「すみません…皿三枚とグラス三つダメにしました」

 すかさず一歩前に出て雇い主へ頭を下げる。

「ええ聞こえてたわ。お客さまに気付かれるんじゃないかとヒヤヒヤしたわよ」

「すみません…」

 そんなに派手にやってたかなと思いつつ帚を手にさらに頭を下げる。

「何度も謝らなくていい。二度とやらなきゃいいことだ。それよりケガはしてないか?」

「ハイ。それは大丈夫です」

 背中まで届くストレートヘアの鬘を威勢よく外しながら朝美さんが言う。下から現れたのは栗色のショートヘアだ。鬘のせいでペシャンコになった髪の毛を手でかき回し頭をひと振りする。その動作だけで『ル・グラン』の看板ホステスから二十五歳の青年・鹿島 朝彦(かしま ともひこ)へと変わるのだ。当然、仲間ばかりだから口調も男らしくなる。でも今客が来たとしても朝彦さんは一瞬で朝美に戻るだろう。そのスイッチがどこにあるのかは解らないけれど、その変貌はお見事と拍手を贈りたくなるほど鮮やかなのだ。

 鹿島という名字が示す通りチーフの鹿島さんとは縁戚関係にある、というか実生活でのパートナーだ。ドレスと鬘をつけるだけで見事な美女に変身する朝彦さんは何の細工もしていない正真正銘の男性だ。女装するのはあくまでも仕事の時だけ。本来の姿に戻った朝彦さんは芸能人もかくや…というほどカッコイイ男で、正直、俺でも憧れるくらいだ。

「良かったな。皿やグラスは替えがきくけどお前の替えはすぐには見つからないからな」

 乱暴な口調だけれど朝彦さんらしい心遣いに「ありがとうございます」とお礼を言った。朝彦さんは「礼を言われるほどのことは言ってないさ」とサラリと返してカウンター席に腰を下ろすと「裕二、タバコ」と綺麗に手入れされた右手を差し出した。慣れた手付きで鹿島さんが火をつけたタバコを受け取り深く吸い込むと、うまそうに煙りを吐き出し髪をかきあげる。一連の仕草に思わず見愡れてしまう。ホント何をしても様になる人だ。芸能界からお誘いがないのが不思議なくらいだ。まあ、誘われても行かないだろうけど。彼は根っからこの仕事が好きなのだ。

「んで孝一。なにがあったって? さっさと吐き出した方が身のためだぜ」

 客の相手をしながらも耳は俺達の話を捕らえていたらしい。ったく油断も隙もない。

 でも皆が心配してくれるのは嬉しいものだ。果たして心から心配してくれているのか、ただ面白がっているだけなのかは悩むところだけれど。

「実はですね。どうやら一目惚れしてしまったみたいなんですよね」

 正直に告白したのに皆が目を丸くして顔を見合わせる。

「一目惚れって誰に。お前、運命の男はどうしたよ。一筋だったんじゃないのかよ」

ツケツケと朝彦さんが言ってくれる。ここでは俺の性癖はバレバレだ。というよりも働いている全員がゲイなのだ。店自体は“ゲイバー”なんかじゃなく普通のバーだけど。従業員がゲイばかりなのはママのポリシーだ。

 面接でいきなり「あなたは男性が好きな人? それとも女性が好きな人?」って聞かれた時には驚いた。なんでそんなことを聞くのかと逆に聞いたら「客とややこしい関係になられちゃ困るからよ。だから女性もノーマルな男性も雇わないの。隠さずに教えて頂戴。あなたはゲイなの?」と返された。なんでも以前、雇っていた女の子の手酷い裏切りにあったとかで女性を雇うのはコリゴリらしい。それに周りがゲイだと身の危険を感じずに済むしね、とカラカラと笑っていた。美人ではあるけれど少々丸みを帯びた体型のママはおふくろって感じで、人間的魅力はあるけれど性的魅力は感じない。仲間である鹿島さんには朝彦さんってパートナーがいるし、基本的に“タチ”な俺は鹿島さん相手に心は揺れない。そして俺の好みである“小さくて可愛い元気系”からいくと朝彦さんは“美人でキレイ系”ってことで外れるし、達哉さんは “可愛い系”ではあるけれど、俺とタメ張るぐらい長身なので、こちらも外れる。第一、達哉さんにもつき合って三年になるモデルばりにカッコイイ彼がいる。

「いや、朝彦さん。アッチの進展がはかばかしくないからじゃないですか?」

「ありうるな。で、どんな奴だなんだよ、そいつ。運命の男よりいい感じなのかよ?」

 朝彦さんの質問は当然だ。“ユウキ”を見つけた時の俺は尋常な状態じゃなかったから。

「それが…自分もビックリなんですけど、女の子なんです」

「「「ええーっ!」」」

 鹿島さん、朝彦さん、達哉さん、ママ以外の三人が見事にハモる。

「俺の聞き間違いか? お前、今女に一目惚れって言ったの?」

 驚きの余り落っことしそうになったタバコを鹿島さんが磨き上げた灰皿に押し付けながら朝彦さんが確認するように聞いてくるのに素直に頷いた。

「孝一、あなたゲイだって言ってたじゃないの…あれはウソだったの?」

「お前、そんなに簡単に宗旨替えしていいのかよ」

「ウソじゃないですし宗旨替えするつもりもないですよ。でも、彼女のことが気になるのも事実なんですよ」

 前半はママに後半は朝彦さんに答えて、俺は続けた。

「で、なにをどうしたら一目惚れってことになるんだよ。経緯を聞かせろよ経緯を。今のままじゃサッパリだし、ママと朝彦は別にしても俺達には聞く権利があると思うぞ」

「ですね。孝一来るまで俺と鹿島さんでてんてこ舞いしたんだからな」

 鹿島さんの言うことも達哉さんの言い分も良く解る。週末のかき入れ時に遅刻して迷惑をかけた身としては顛末を話すべきなのだろう。まあ別に秘密にしとかなきゃいけないことでもないしな。

 カウンターの椅子に腰掛けて俺は目を閉じた。夕方の出来事が鮮やかによみがえってきた。


「…ったく、時間通り来いよなぁ…」

 俺はぼやきながらマンションへの道を急いでいた。

この一週間、一瞬たリとも気の抜けない実験に突入していたので交代で泊まり込み装置の監視を続けていた。昨夜は俺が当番でほんの少し仮眠をとっただけで朝まで寝ずの番で計器と睨めっこだったのだ。授業がない日だったから交代が来たら速攻引き継いで、バイトまで仮眠をとることに決めていた。

飯は学食ですませて帰って風呂に入ってベッドへ直行。入りは六時だから五時に起きれば充分間に合う。三時間ちょっとしかないけれど身体を休めるには充分だ———。

予定は完璧だった。が、待てど暮らせど交代は現れず、彼女が来たのは起床予定時間だった。いきなりの番狂わせにカチンときていた俺は、クドクドと言い訳をはじめた後輩に観察記録を押し付けて教室を飛び出した。

マンションは駅を挟んで大学とは真反対の歩いても十分もかからない距離だった。でも悠長にしてる暇はない。急がなければシャワーを浴びるどころか着替えるだけで精一杯かもしれない。裏方とはいえ客商売だ。最低の身だしなみは整えておかないと……。

全速力で大学前の坂を駆けおり駅構内を通り抜け一目散でマンションを目指していた俺は焦る余り周囲に気を配るのを忘れていた。角を曲ればマンションは目の前だと更にスピードをあげた時だった、角から人間が飛び出してきた。普段の俺なら避けられたハズ。だが寝不足で反射神経が鈍っていたのだろう、まともに腹で受け止めた———つもりだった。

「うわぁ〜」

少しハスキーな叫び声を上げ小柄な物体が後ろによろめきながら、路上に溢れ返った自転車にまみれて倒れていく。

助けなきゃと、頭では解っていた。

でも自転車に埋もれてもがいている相手の顔に俺の目は釘付けになっていた。

(うそ!)

 呆然と立ちすくむ俺を、

「……何処見歩いてんのよ!」

 ハスキーヴォイスが現実に引き戻した。

「えっ?!」

「えっ? じゃないわよ。ジロジロ見てないで助けようって気にはならないわけ!」

 キャンキャンと自転車と一体化した女の子は俺に吠え続ける。自分でも抜け出そう努力しているが、複雑に倒れ込んだ自転車にどうしようもない様子で「早く、早く」と催促するように手を振っていた。ほんの少し躊躇ったあと、俺はその手を力任せに引っ張った。

「いっ…痛いじゃない。乱暴にしないで、もう少し丁寧に扱いなよ!」

起こしてやってもお礼もいわないで洋服についた汚れを払っている相手を俺はただ、見つめるしかできない。

だって。目の前にいる女性は、俺の運命の男“ユウキ”にソックリだったから。

 ウリ二つ、いや三つぐらい似ている。

 もしかして同一人物? いや、そんなハズはない。だって腹の辺りに感じた柔らかさは、どう考えたって胸の膨らみだ。当り前の話だけれど“ユウキ”の胸に膨らみはない。大学名を染め抜いた濃紺のユニフォーム姿の“ユウキ”は紛れもなく男の身体をしていたのだ。細くて小さくて腕の中にすっぽりと納まり抱き心地もよさそうな俺の好みにドンピシャの。

「…ちょっと聞いてんの?」

「あっ、ゴメン。なんだって?」

間の抜けた返事に彼女は心底呆れたような感じで目を丸くした。

「あのねぇ、自分がしでかしたことの重大さに気がついてないってことはないよね?」

 大袈裟に手を広げて自転車をさし俺に気付かせようと必死の形相だ。いくら“ユウキ”に似てるといっても理不尽な言い様は我慢できない。

「…でも、自転車が転けたのは君が倒れたからだろ」

「それは、アンタが突き飛ばしたからでしょ? そっちが気を付けてれば転ばなかったし、自転車が倒れることもなかったんだよ」

わかってる? 悪いのはとにかくこっちだと言わんばかりに俺を責める言葉と黒目がちの大きな瞳。身長は女性にしては高い方だ。おまけにスリム、なのに胸だけは今流行りの巨乳系。なにもかも“ユウキ”とは違う。でも、なぜだか“ユウキ”と重なってしまう。だから強く出られない。交代要員の後輩とは大きな違いだ。彼女相手だとあそこまで冷たくなれたのに。これは一体どういうことだ?

「……さっきから聞いてると俺ばかりが悪いように聞こえるけど、君に非はないわけ?」

「俺ばかり、じゃなくてアンタが全面的に悪いの。受け止めるのが普通でしょ、突き飛ばすなんて…」

「ちょっと待てよ。俺が君を突き飛ばしたってのか?」

 聞き捨てならない台詞に俺は噛み付く。避けられなかったことは認めるけど、突き飛ばすなんて。いくら女子が苦手だからってそんな失礼なことはしないぞ、俺は!

「自覚症状なしなわけ?」

 まいったね、と肩を竦めて首を振る。

「とにかく。アンタが突き飛ばした。それが事実なのはこの惨状を見ればわかるでしょ? 洋服もぼろぼろ…」

 冷静になって彼女に目をむければ黒いパンツスーツが自転車のサビで汚れて擦り切れて、転んだ拍子に引っ掛けたのかむき出しの白くて細い二の腕に長く傷が走り血が滲んでいる。

「…ごめん」

「今さら謝ってもらっても遅いよ」

「病院に行こう」

「はぁ? この状況のどこに病院が関係するわけ?」

「腕ケガしてる。血が出てるじゃないか…」

 俺の言葉に初めてそのことに気付いたように目を丸くしている。

「ああ。こんなものは嘗めとけば大丈夫」

 かなり深そうに見える傷を彼女はペロリと舌で嘗めた。チラリと覗いた赤い舌に背中がゾクリとする。

(ちょっと待て。いくら似てても女だぞ。この娘は “ユウキ”じゃない!)

 男なら少しの傷は勲章だ、でも女の子が身体に傷をられて「嘗めとけば」はないだろう。普通は傷物にされたと罵られても良いようなことを無視して彼女は全く違うところを問題にする。

「それよりも、このスーツだよ…借り物なんだよなぁ」

 途方にくれたような口調と上目遣いの視線。

(止めてくれ。似たような瞳で見つめられると何も言えなくなる!)

 心で悲鳴を上げながら、なんとか言葉を絞り出す。

「…弁償だよな」

「そうだね。できればそう願いたいけど、でもムリだね。オーダーメイドの一点ものだから。それにあんまりゆっくりもしてられない。出勤時間かなりオーバーしてるから…」

 彼女の言葉に慌てて時計に目をやって俺も慌てる。

「ああ、俺もバイトが…」

 女相手にときめいてる場合じゃない。

ちょっと待て、俺。

女の子相手にときめいてるって? 

どんなに魅力的な女性にも感じなかったときめきを? なんで。どうして?

「じゃあ仕方ないね」

 内心焦る俺にそう言うと彼女はショルダーバッグから紙切れを取り出し手に押し付けた。

「ここで働いてんの。近い内に一度来てよ。それで今日のことはチャラにしてあげる」

「でも、その服…」

「それはいいよ。こっちで何とかするし。じゃ待ってるよン」

 魅力的なウインクを一つ残し、何事もなかったかの様に駅の階段をかけおりていった。

 俺の手に残されたのは、角の丸い普通サイズより一回り小振りのピンク色の名刺。

「 “セクシースポット・シャンティ”ルカ」

 読み上げながら彼女が消えた階段を見た。

“ユウキ”とそっくりだけど名前はまったく違う。

 やっぱり別人だよな。


「セクシースポット・シャンティのルカちゃん…ねぇ。まあ名前は可愛いけど、一目惚れさせるほどイイ女はこんな怪し気な店じゃ働かねぇよなぁ…」

 俺の見せた名刺をヒラヒラさせながら朝彦さんが言うと「ちょっと見せて頂戴!」と横あいから手を伸ばしたママが引ったくって「やっぱり!」と呟いた。

「やっぱりって…ママ知ってんの?」

「知ってるもなにも。駅向こうのレジャービルの店じゃないの!」

「駅向こうってーと新居ビルか? あそこにそんな店入ってたっけ?」

 名刺を奪い返して首を傾げる朝彦さんに「ああ、あそこか」と達哉さんが手を打った。

「何、お前も知ってんのか?」

 鹿島さんの質問にコクリと頷く達哉さんだ。

「一軒だけ入ってるキャバクラ。イベント作ってはチラシバラ巻いてるか、じゃなきゃ毎晩、ハタ迷惑なぐらいド派手に黒服が客引きやってる店だよ」

「…あれかぁ。たしかに目立つし迷惑な客引きだわな。でも何で達哉が知ってんの?」

「前に一志がひっかかったんだ。メチャしつこくてマジギレしそうだったって」

「ああ、なんか言ってたな」

 なんだ皆納得して。知らぬは俺ばかりなりってこと? でもキャバクラなんて縁遠いもんな、知らないのも仕方ないか。

「そりゃ悪いやつに引っ掛かったな。どうせ成績が悪くてクビなる寸前だったんだろ。だから身体はってお前を引っ掛けたってところだな」

「そうなんですか? そこまで悪い感じはなかったけど。それに洋服のことだって…」

「ハッ、そんなのでまかせに決まってんじゃないか。大体さお前、服見ただけでどこのブランドかって判んのかよ?」

俺はフルフルと首をふる。元々、着るものには頓着しない方だからブランドなんてパッと見だけでは分からない。ロゴでもついていれば別だけど。

「だろ? 洋服のことは口実で店に来させて金使わせるのが目的なんだよ。気にする必要ない。それに貰ったの名刺一枚だけだろ。お前の情報は流れてないんだから向こうも探しようがない。それを間に受けてノコノコ出かけていったら、架空請求か振り込め詐欺に引っ掛かるのと同じだよ。無視するに限る」

 朝彦さん言い分は一々もっともだと思う。けど、もし全部本当だったらどうなる? 俺のせいかどうかはともかく、ダメにした服の責任をあの娘が取ることになるんだろう。

「なぁんか納得いかねぇって顔付きだねぇ」

「はあぁ? マジ宗旨替えするつもり? それなら手始めにフロアに出てみろよ」

「冗談じゃないです。それだけはゴメンです」

事あるごとに朝彦さんは俺をフロアに誘う。来店する客が男性ばかりなら俺だってホストとしてフロアに出ることは厭わない。でも客は男性ばかりじゃないし、客だって仕事の疲れを癒して貰うならホストより綺麗なホステスの方がいいに決まってる。

何度も言うけど『ル・グラン』はホストクラブではないからさ。

俺は女性全般が苦手だが、中でも必要以上におしゃべりな女性が一番苦手なのだ。ごくまれに人出が足りなくてフロアに出ることがあるけれど、そんな時に限って詮索好きな女性客にあたってしまう。朝彦さんのように「客はお金」と割り切れればいいのだが、場数を踏んでいる彼と違って俺はそこまで人間ができていない。だから今日のように突発的な出来事であたふたしてしまうのだ。

「宗旨替えするつもりなんてコレッぽっちもありません。俺は“ユウキ”一筋です。でも、あの娘のことも気になるんですよね…」

「そんなことで大切なコレクションを三枚のダメにしてくれたの?」

 呆れたと言わんばかりのママの声。それについては返す言葉もない。

「でも、孝一ばかりのせいじゃないわね。そのルカって娘にも責任の一端はあるわ…」

「行ってみりゃいいじゃん、その店に」

 ママのつぶやきに朝彦さんの明るい声が重なった。

「ええっ!」

 朝彦さんの提案に驚く俺を無視してママはうなずいた。

「そうね、うやむやにするのはダメね。私の大切なコレクションの為にも、それが一番手っ取り早いわね」

「ですね。孝一に任せとくととんでもないことになりそうだしな」

「じゃあ、取りあえず“ぜんは急げ”ですよね〜」

自分のケツぐらい自分でふけると思うのに、当事者の意志を無視して残りのメンバーで話がまとまってしまった。鼻歌を歌いながら朝彦さんはロッカールームに消えて行き、鹿島さん達はさっさと閉店作業に取りかかる。俺も仕方なく店内清掃を開始した。

それからキッカリ三十分後、皆が店の前に集合した。

「孝一が宗旨替えまで考えたって女のツラ拝みに行こうぜ!」

 楽し気な朝彦さんの声がネオンの落ちた路地にこだまする。

「だから、宗旨替えなんて考えてませんって!」

 地団駄を踏みながら投げ付けた文句は、皆の背中にあたって落ちた。